top of page

N-8
三寒四温

 クロロは今日、朝からいない。
 ネオンは機嫌よく部屋の掃除に精を出していた。思いっきり散らかした部屋は片付けるのに根気が必要だったが、ネオンは昔から自分が癇癪を起こした後の部屋を片付けるのは嫌いじゃなかった。こんなものまで投げてどうするんだと思ったりしてその場限りの反省会をしたり。癇癪を起こせるのも父親の目がネオンに向いているという他ならない証拠だから。その昔だったら、癇癪云々以前に生きてても死んでても分からなかったに違いない。

 クロロとの生活で一番気を遣うのはなんと言っても書庫だ。埃だらけにしてはいけない湿気は大敵本の閉じっぱなしもだめ。
 鼻歌混じりに書庫をやっつけて、見切りを付けてネオンはようやく居間に戻る。
 いや、戻ろうとした。

 悲鳴を飲み込んできびすを返し、居間から見えない位置にしゃがみこむ。いつ帰っていたのだろう。
 居間に踏み込もうとした途端だった。気配に鈍感なネオンにさえ分かる。隠すつもりがないのか。ネオンを襲う気配は冷たくて、怜悧だった。意味が分からない気配があまりに恐くて、身体が勝手にガタガタ震える。
 見つかりたくない。嫌だ。
 それだけはよく、分かっていた。

「ひっ!」
 軽い衝撃にさえ怯える。衝撃の元を見ると、日に当ててふわふわにしておいたクッションだった。ついさっきまではそこになかった。だってソファに置いたのはネオンだ。
「取れ」
 気配と同じ、冷めた声が襲ってきた。命令には絶対服従だ。クロロはそんな約束をさせたことはないが、逆らったことはないし、今の声は逆らえない響きを明らかに持っていた。
 ネオンは怖ず怖ずとクッションを取る。腰が抜けて立ち上がれないかと思ったが、そうでもない。
「ぉ、かえり・・・なさい」
 返事は静かな声。
「ずいぶん遅い挨拶だな。まあ、“ただいま”」
 ということはクロロはずいぶんと前に帰ってきていたのだ。クロロのそばに来てネオンは気付く。
 ただ、暴力的に恐い気配だけではない。悲しくて切なくて胸が痛くなるくらい無防備な表情だった。こんな状態のクロロが、能天気に部屋を片付けるネオンをどんな目で見ていたのだろう。
「座れ」
 言われたネオンはクッションをクロロのそばに置き、いつも通りクロロの足元にぺたりと座った。ソファに寄りかかっていたクロロはそれに気付き、ポフポフと横を叩いた。隣に座れということなのか。
 ネオンはまた、怖ず怖ずよじ登った。

「君は」
 ネオンが隣に膝を抱えてちょこんと居座ってからクロロは言った。
「死後の世界はないと思っていたな」
 ソファにゆったりと腰かけ、背もたれに腕を広げて乗せながら、クロロはネオンを見なかった。オールバックにセットした髪が少し乱れて前髪が一部零れている。心情を表しているみたいだった。
 びくびく緊張して座るネオンはクロロの横顔を凝視する。
 あの時のように、突然に、静かに、クロロは涙を流した。
 唐突に、答えが出た。

「クロロさんの大切な人がまた死んじゃったの?」
 ストレートに尋ねても、クロロは悲しみと切なさの空虚を変えなかった。
「・・・ああ。大分前のことだ。そうなるってオレには分かってた。でも、真実となると悲しいな」
 淡々と話すクロロが切なくて胸が痛い。前はただその涙に驚いただけだった。クロロの近くにいるようになって、感じるものが増えた。クロロはネオンに涙を隠さないのだと知った。
 精神的にも肉体的にもとても強い人だと分かっている。きっとクロロにとってネオンは、涙を見せるか見せまいか迷う価値もない程度の存在なのだ。

「その人がしたかった何かを、やってあげた?」
 ネオンはまた尋ねる。尋ねることでクロロの気分を害して殺されてもいいと思えた。曲がりなりにもそれなら、自分で“死”を選んでいる。
「何か・・・」
 だがまたしてもネオンの命はなくならず、命を握るクロロはじっと固めていた身体を動かした。口元に手を当てて物思いに耽る。
「ああ」
 瞬きと同時にまた一筋涙が零れた。クロロはそのまま目を閉じる。目尻から涙があふれ出た。
「そいつがやりたかったことは分かってる。オレが今までしてきたことも、今してることも、そいつのやりたかったことにつながってる」
 ネオンはなんとなく、この奇妙な生活の終わりが近いのではないかと思った。その時点でネオンは生きているのか死んでいるのか分からないが、仮初めの平穏は終わるのだ。
 きっと。
「その人のやりたかったこと、早くできるといいね。がんばれ。クロロさん」
 クロロは、クロロの世界で生きていく。応援したいとネオンは思った。

 クロロはようやくネオンを見た。
 迫力を感じるほど整った顔。涙の筋は綺麗だった。

「どこに行く?」
 腰を浮かせたネオンの腕がつかまれている。
「あ・・・涙・・・だからティッシュ・・・取ろうかと」
 もちろん消耗品は手を伸ばせば届くところに用意してある。ネオンはクロロから背を向けようとしただけだ。
「いい」
 クロロのわずかな力でネオンはまたソファに座った。
 ネオンは手を伸ばしてクロロの濡れた頬に触れる。タオルも何もないので袖でそっと、涙を拭った。クロロは払わなかった。迫力の相貌でネオンを凝視したままだ。

「目が、大きいんだな。簡単に刳り貫けそうだ」
 呟くと、クロロは自分の頬にあるネオンの手の上から手を置く。ネオンの後頭部にもう一方を回し、引き寄せる。
「クロロさ・・・っ!」
 反射的に目蓋が下がる。
 人の口が目の前にあるって恐い。けれどクロロの指が閉じようとする目蓋を止める。
「ふ・・・っ」

 眼球を舐められた。

 背筋がぶわっとそそけたつ。キスより濃くて、セックスくらい脳に疼く。
 驚いたことと直接の刺激でネオンの目からも涙。それは流れる前にクロロに奪われてしまう。
 うん、とよく分からない納得のため息が目尻で零れる。ゆっくりと、もう片方も舐められた。クロロの舌からネオンは瞳を避ける。視界が舌で奪われるのは恐ろしかった。
 眼球を押してくる舌は、最後に目頭から目尻まで下目蓋の際にそってゆっくりと舐めた。
「しょっぱいな」
 真っ黒な目が、ねぶられてぼやけるネオンの目を覗き込む。眼球を舐めるという今の行為は、とてもじゃないけど口には出せないほどの、独占欲に塗れていた。
 クロロと暮らすようになってからメイクが遠退いていた。なんとなく、よかった、と思った。
「君はお菓子ばかり食べるから、どこもかしこも甘いと思ってたのに」

 くらくらしているネオンをクロロは持ち上げる。お姫様抱っこだなんて夢見がちなものでは断じてない。そんなことをされた記憶はない。片手で肩に担ぎ上げられたネオンは、クロロの向かう先はバスルームかベッドルームなのだろうと分かっていた。
 あの時ネオンに向かって投げたクッションは、限界まで抑えたクロロの癇癪なのかも知れなかった。

以上

既刊誌「Is that all?」のネオン視点です

bottom of page