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二者間における懊悩

 進清十郎という人間は、天才だがどこかズレている。
 実は。
 呆れるほど。

二者間における懊悩

 

 

 

 

 

 それに関して進が今まで動かなかったのには、それなりの理由があった。
 桜庭に、日々に名も知らぬ人間からの視線が気になることはないのか、と聞いてみたところ、それは普通だ、と答えられて納得したということもあるし、今まで自分の命に危険をともなうような殺気を感じなかったので気にすることはなかったのだ。ちなみにこの際進は、俺にとってはね、と桜庭が最後に言った言葉をすっかり聞き逃している。
 まあ理由といってもそんなところだが。

 月単位で日常化したその追跡に振り向こうと思ったのは、桜庭にストーカーの話をされたからだ。女の子だから強く出れない、と顔をしかめていた。そこで進は驚く。ストーカーには女もいたのか。
 進自身感じていた視線の先は、女だったのだ。向こうは気付いていないだろうが、もうずいぶんと前から追跡者がどんな体をしているのか、進は知っていた。女だてらに日々のトレーニングにまで最近はかなりついてこれるようになってきたものだから、感心をしている今日この頃。
 それは少し置いておいて、とにかく1度問わねばならないと思った。追跡者がストーカーと呼ばれる犯罪者であったのならば法律上訴えなければならないし、そうでなければ間違えた自分の非を詫びなければいけない。
 と、進は相変わらずき真面目に思った。

 いつもと同じように早朝の自主トレをして、だが突然ぱたりと立ち止まる。後ろにいた追跡者は慌てて同様に立ち止まり、身を隠した。進は振り向くとスタスタとその距離を縮めていく。
 ある点で目が合う。進としては、はなからその対象だけを見ていたのだが、追跡者はそれは驚いていた。進が自分のところに向かっているのが分かったからだ。
 くるりと方向を変えると走りだした。進もスタートを切る。
 かなり速かった。というか進が今まで見てきた女の中で1番速かった。同じトレーニングをしているだけはある。元々の素質もあったのだろうが。
 だがそれは当然のことだが、結果はあっけなかった。相手は努力する天才で高校最強だ。
 射程距離に入った瞬間、進はすっと手を伸ばす。相手の体に負担をかけさせないように、走る体を捕らえた。頭から爪先まで視線で一周して、腕の中にいる女が自分を追っていた人物と同じことを確認すると、進は言った。
「聞きたいことがある」
 2人が向き合った瞬間だった。

 動悸が激しい。
 ラブは真剣に、自分は死ぬかもしれないと考えた。
 遠くから見るだけならいつだって胸が高鳴って幸せな気分になれるのに、目の前にした今、隠れてしまいたい逃げてしまいたい消えてしまいたい。

「は・・・い・・・」
 彼は間違いなくラブを見つめ、言う。
 捕まえられた時に触れられた体が焼けるように熱い。
「お前は俺のストーカーか?」
 ラブの頭は真っ白になった。他の誰でもない、彼にそう思われてしまったのだ。
「・・・分かりません」
 ラブは正直に言った。同じ時間に同じことをして、同じものを見ていたいと思うのはストーカーなのだろうか。
 彼の存在はラブにとって素晴らしすぎて近寄ることさえおこがましい。自分なんかが声をかけられないから。でも、見つめ続けていたいのだ。
「そうか」
 ここでしばらく沈黙。

「あの・・・」
「何だ」
 考えごとをしていたとは思えない反応の良さで答えがある。
「進様は・・・ご迷惑に思われたのでしょうか・・・」
「いや、迷惑だと思ったことは1度もない」
 なけなしの勇気を振り絞った発言があっさりと返され、ラブは次の言葉が浮かばない。
 ここでまたしばらく沈黙が続く。

「・・・あの」
「何だ」
 同じ反応に、ラブは泣きたいほどの幸福に包まれる。
 本物の、彼だ。
 だからラブは意を決して言った。
「私は進様にとってストーカーでしたでしょうか・・・」
 そこで、彼はラブと話し始めてから初めて即答を控えた。
 ラブは質問してしまったことを早速後悔する。それよりも言葉を発してしまった自分を後悔した。
 また逃げそうになって、その前にラブをとらえてから動かない、彼の視線にその場に縫い止められる。
「相互に認識がないのならばお前はストーカーではない。疑ってすまなかった」
 と。彼は躊躇いもなくラブに対して頭を下げた。
 ラブは、腰が抜けた。

「っ・・・!」
 間髪入れずに気付いた彼は崩れ落ちる前にラブを支えてくれた。目の前に。
 驚愕の現実の連続だ。
「ひっ・・・とりで・・・っ、立てます」
 声が裏返った。だが動かない、目の前の彼。
「あの・・・・・・進様・・・?」
 うかがった言葉にすぐには反応せず、ラブを見てしばらく惚けたように立ち尽くしてから、彼は首を振る。
「お前の筋肉が歩けるよう、意識できていない」
 彼はラブを見るととつとつと告げた。
「日々の努力は無駄にはならない。いい速度だ。走り方も良かった」
 さっき逃げた時のことを言っている。ラブの口は痙攣する。とにかく何か答えようとしても、彼が近すぎて情報処理が追い付かないのだ。
「は・・・い」
 彼は真っすぐにラブを見て尋ねる。
「なぜお前は1年近く俺を追っているのだ」
 自主トレにくっつくようになったのはおそらく1年前ほどのことだ。ほぼ最初から彼はラブに気付いていたことになる。
「わ・・・私は・・・」
 喉がカラカラだ。彼はラブを見ている。
 部屋に飾ってある、泥門を手伝った時に蛭魔にもらった彼とサイズ以外に違うところのないユニフォームが浮かんだ。ポケットに入れてある同じグローブ。
「私は・・・進様と同じになりたい」

 呼吸もままならない彼女の声に進の思考回路は止まった。ほんのわずかの間。

「それは、不可能だ」
 事実を告げると腕の中が震えた。
 進は説明するために、抱えていない方の手を伸ばす。
「この鎖骨から」
 指をすっと移動させる。
「この脇に続く肉の流れは無駄がないが、ここは間違いなくお前が女だという事実を示している」
 惜しげもなくばっさりと刈られている髪の毛のせいであらわなうなじからの特徴的なライン。筋肉や脂肪で識別できる進から見れば、バランスの良い綺麗な肉のつき方をしている。
「それは、覆せない事実だ」
 説明をしながら指に触れた肌の感覚を進は疑問に思う。

「私は・・・」
 もう1度触れようとして彼女が口を開いたのでその体の直前で手を止める。
「進様の隣には立てないのですか?」
「俺と同じになることが必ずしも隣に立つ方法ではない」
 進は彼女の体を支えたまま立たせる。なぜ触れようと思ったのか。答えは見えない。
 疑問の対象である彼女は震えたままではあるが、地に足が着いているので安心した。
「追いかけるのではなく、共に始めればお前は俺の隣にいることになる」
 進はあくまで自主トレについて話しているにすぎなかったが、その一方で、今度は支えている手を離しがたいと思っている。
 そこまできて、進は彼女の名前すら知らなかったことに気づいた。

「名は?」
 下唇が数回上下してから、彼女は言う。
「ラブです。・・・干徳、ラブ。・・・お、王城高校の生徒です。い、1年です」
「うむ。では干徳」

 進は、その仕草を凝視した。
 呼んだ瞬間、彼女の体中の筋肉が収縮するのが分かったのだ。
「は、い・・・」
「・・・干徳」
 まただ。興味深かった。
「はい・・・」
 小さくなる返事。進は彼女の体を抱え直して、言った。
「知っているだろうが、俺の早朝の自主トレは毎日学校から開始している。干徳の」
 ここでまた締まる。進が名前を呼ぶことに反応しているのだ。その様子を見るためだけに少し止まり、続けた。
「出来る範囲でいい。ついてくればいい」
 彼女はしばらく止まり、口を開いた。
「私が・・・進様と・・・?」
「うむ。それから干徳」
 と、また呼んでみる。思った通りの反応が彼女の体から得られて進は満足した。
「俺は『様』をつけられるほど地位のある人間ではない。なぜ、そう呼ぶ」
 彼女は体をわななかせると、だってだって、と何度か繰り返して、うつむいた。
「私には進様は、進様なのです」
「む」
 全く理由になってはいなかったが、進はそれ以上を聞かなかった。別段彼女にそう呼ばれても違和感がなかったからかもしれない。
「進様は、ご迷惑に思われますか・・・?」
「迷惑ではない」
 彼女は、笑った。
 進の体が、震えた。

 はっと気づいたように彼女は左右に視線をやり、進を見上げた。
「あの・・・」
「何だ」
「もう時間が・・・」
「む・・・」
 随分と立往生をしていた。通行人を阻む形で2人は対峙していたのだ。しかも進は彼女の体を支えたまま。
「このままでは通行人に迷惑がかかるな。行くぞ」
 進は彼女の体を支えたというより抱えたまま、人の流れを掻い潜っていく。

 自分の体の震えや触れたいと思う気持ちに関しては分からないが、気付いたことがある。
 彼女の反応は、桜庭といるとよく遭遇する女たちに少し似ているのだ。だがそれよりかは受ける印象が強い。
 王城高校の騎士道精神がしっかりと備わっている進にとって、女性は無条件に庇護の対象だが、それはとても良い姿勢だと思う。
 ほどなくして、王城高校の校舎が見えた。

「歩けるな」
 確認した進に対して、息を切らした彼女はうなづく。
 進は彼女の両肩を持って支えた。やはり、離しがたいと思うことに疑問を持った。
「干徳」
 手のひらに伝わる体の響き。それを感じてやっと手を離す。
「明日、この門で待つ」
「必ずうかがいます!」
「うむ」
 即答にわずかな安堵。
 彼女から意識を離し、進は部室に向かった。

 結局。
 他のメンバーの朝練に付き合っていた小春が引き上げて、顔を真っ赤にして立ち尽くしているところを発見するまでラブは動けなかった。
 一方、女性を触って離しがたいと思うのはどういう時か、と進に尋ねられた桜庭は、進に春だ、と勝手に浮かれていたとかいないとか。

以上

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