境界線
その笑顔をすくう掌
ラブは帰る足の方向を変えた。普段だったらそのまま家に直帰しているところなのだが、なぜか、向かっている場所は学校だった。自力で行ったラブより先に、王城高校のバスはすでに学校に着いていた。校門の前で立ち尽くす。
ここに来て、ここにいて、どうしようと言うのか。あの人にラブが何を出来ると言うのか。
立ち尽くしたまま、校舎を見上げ、途方に暮れた。
アメフト部のマネージャーである親友が教えてくれたから、部員の多くは現地解散していることを知っている。ここに来るかも分からない人を待つなんて。確かなことは、何もないのに。
あの人に対しては、いつも言葉を探している。輪をかけて、今は何を言えばいいか分からない。ここにラブがいる必要だって、まったくない。
ラブは、無力だ。
あの人のために出来ることの何かがすくえない手のひらを、見つめながらそう思う。
「ラブちゃん」
肩の下あたりから声をかけてきたのは小春だ。あたりは暗い。ずいぶん時間が経っていた。そこにいたのはいつもの飄々とした小春だ。
「お疲れさま、はるちゃん。ここまでよく頑張ったね」
けれどその手を包んでラブが言うと、小春は見る見るうちに目を潤ませた。
「ううん、わ、私なんて・・・何も、できなか・・・た・・・のっ・・・!」
ラブの手に額を当て、小春は吐き出すように言う。喉がつっかえてうまくしゃべれていない。
「私なんて・・・、私なんて・・・っ」
「はるちゃん」
ラブはいつも見てきた光景の中にいる小春を思い出しながら言った。
「はるちゃんがマネージャーとしてどれだけ頑張ってたか、私は知ってるよ。それに何も出来なかったなんて違うってことも知ってる」
「だって、だって・・・」
「私は、知ってるって、言ってるんだ。思ってたんじゃない」
「・・・でも」
「じゃあそう思っててもいい」
ラブの言葉に小春が初めて顔を上げる。突き放したような言葉を発したラブは、だが、優しく笑っていた。努力して似せようとしているあの人に、少しも似てない。その笑顔に小春は柔らかな気持ちにさせられた。
「だけど、はるちゃんはまだ、・・・ううん、また、頑張るんだよね?今年のホワイトナイツが終わったからって、家の手伝いに戻らないよね?」
目を合わせて、聞いた言葉は疑問の形をしていたけれど、確認だった。小春は唇を噛みしめて頷いた。
「うん・・・うん、今は私、アメフト部のマネージャーの仕事、私ができる最後までやりきりたい」
ラブはそう言った小春をまぶしく感じた。だから笑うようにして目を伏せた。
「そう思ってることも、知ってるよ」
「ラブちゃん」
小春は目を潤ませたままラブに抱きつく。はたから見れば危うく、女子高生と女装の美男子の抱擁のようだが、実際は女の子同士の友情の再確認と言ったところで、いたって危ういものではない。
小春がラブの胸に頭を乗せたまま聞く。
「進さんを、待ってるの?」
ラブの体がぴくりと震えたのが小春には直に伝わった。
「・・・分からない」
「そっか」
「だって進様が学校に帰ってこられるのかも、私、知らない。・・・そのままお家に帰っていらっしゃるかもしれない」
「ラブちゃん」
小春がラブの胸から顔を上げ、真下からにこりと笑った。
「私、『そっか』って言っただけだよ?」
ラブは口を尖らせる。
「はるちゃんー」
とん、と小春はラブの胸を押して離れた。
「私、帰るよ」
「大丈夫?」
「ラブちゃんこそ」
ラブはまた小さく口を尖らせた。
「私は、ラブちゃんが知ってくれてるから、また新しく頑張れるよ」
鞄から出したタオルで涙を拭くと、少しだけ困った顔をした。
「こんな私でも何か出来ること、あると思うから」
ラブは何度も首を振ったり頷いたりした。
「それからね」
離れていきながら小春は言う。
「ラブちゃんがどれだけ“進様”を思ってるのか、私、知ってるよ」
反射的に手を振り返したラブは、小春の姿が見えなくなってから顔を覆った。小春と違ってラブは、その言葉に値すると思う。
「でも、私なんか」
言葉にすると、本当に何も浮かばない自分に絶望する。
あの人のために何か出来ることが、あるのだろうか。
ラブは今度はしゃがんで、再び手のひらを見つめていた。
あの人の笑顔を思い出してまた、泣いた。
その笑顔をすくう掌
「干徳」
感情のこもらない低い声。そこにあるものをただ口に出したというだけのことだ。
ラブは進を見上げた。もちろん薄暗いとは言っても、こんなに近くに来る前から進の姿を察知していた。名前を呼ばれた条件反射にぴくりと筋肉が震える。どうすればいいか分からなかった。
結局どうすればいいか分からなくて、でも進を見た瞬間からラブは動けなかった。
「なぜ、ここに」
進が話すと、ピンと空気が張る。ラブは進に尋ねられることによって自分の中で答えが見えて、消えたくなった。
進清十郎という人の目から記憶から、消えてしまいたくなった。
だが、進の言葉はラブに拘束力を持つのだ。
「あ・・・」
口を開いたらかすれた声が出た。小春相手にあれほど冗舌だったくせに。1度口を閉じたところで何か変わるとも思えなかったのでそのまま言った。1度閉じれば2度と開けないような気がしていたからかもしれない。
「私の、わがままです」
「わがまま?」
「進様にお会いしたくて、そのお姿を拝見したくて、・・・私は」
カチカチと音が鳴ると思ったら、顎が震えて歯が当たっているせいだった。
秋も終わりかけだけれど、それほど寒いというわけじゃないのに。そこまで考えて、再確認する。
秋の、終わり。
「お前が俺を見ようとしているのはすでに認識している。なぜ、今、俺がここに来ると分かった?」
変だなと思った。何か変だなと思った。
進は、立ち去らない。
挨拶くらいは出来るようになった今、ただ一言を交わしてロードワークを終わらせればいいのに。
ラブは立ち上がった。1つの行動をするのに、とても勇気が必要だったけれど。
正面から見据えられて、思ったよりもずっと、進が近くにいたことに気付く。後ずさろうとしてから背中が当たる。校門の柱に寄りかかって待っていたのを思い出した。
「進様が・・・、ほ、本日も・・・こちらに戻られるのかを、知りたいと思いました。・・・進様がいつもと同じ時間に戻ってくるのかを、知りたかったんです」
対して、そうか、とだけ答えた進。普段からの口の回らなさに加え、普段より数段上がった緊張をしているラブを、進はつぶさに見ている。
すっかりと暗くなって、民家から離れたここは、学校名を示すランプだけが光源だったため、普段の視界よりさらに進しかラブには見えない。
「目蓋が腫れている。涙を流したな」
指摘されるとは思わず、ラブはタオルを鞄から出して、ごしごしと拭いた。目立つのだろうか。小春には言われなかったのに。
「今は流れていないから拭いても効果はない」
「すみません・・・」
慌ててタオルをしまう。1つ1つの動作を焦るラブに、謝る必要はない、と進は言った。
「何か嫌なことが?」
ぽかんと進を見てしまったラブは、何か嫌なことがあったのかと聞いている、と重ねられ、我に返る。
「そ・・・そういうわけじゃないんです」
ラブは必要以上にどもる。進に気にかけてもらえるだなんて思いもしなかったのだ。
「・・・あの、自分でもよく、分からなくて・・・・・・理由が自分のことじゃないのは、確かなんですけれど・・・」
寒いなと思った。
そうだ。もう、秋が終わるのだ。
孤高で在るしかなかった進に自分の全てを懸けて挑める目標が出来たことがうれしいのか、あのメンバーを擁したホワイトナイツで進が動く日はもうないのが切ないのか、進の胸のうちはどんな淋しさを持っているのか、そんなことを考えた。
ラブには答えを出せないことばかり浮かんでしまって、分からない。何よりあの笑顔を見た瞬間にあふれた涙の理由は、衝動的としか表現できない。
心臓をわしづかみされたような。
すでにラブは進に全てを持っていかれているような状態なのに。
進はただラブを見ていて、そこから何かをうかがい知る余地もない。
「そうか」
進はまたそれだけ言った。たどたどしく、思うことのほとんどを言ってしまったのは、後悔するよりも前だった。“前悔”って出来ないんだろうか。
「だから・・・こ、ここにいるのも、全部全部、私の・・・わがままなんです」
心臓がありえないくらい早く波打っている。このまま進と居続けたらラブの寿命が縮まるような気がする。もうそうなったらそれはそれで本望だけれど。
そばにいれるだけで呼吸困難を起こしそうな息切れをしていた。
「それは、当たり前だ」
ラブの体質に慣れてきているのか、進は体調をうかがうこともなく答えた。
「己だけのために動いているのなら、理由の所在は全て己の中の意志、つまりわがままに繋がる」
ラブはまた惚けて、バクバク鳴る胸を押さえた。
「し、ん・・・様は、己の中の意志のために、・・・今、何かなさりたいことはございますか?」
進が止まる。
ラブは口から出た言葉を取り戻すすべを真剣に考えた。だが、進からの答えはあった。
「この・・・体にこもったものを、出したい」
答えを得られたことに驚きながら、ラブは茫然と尋ねる。
「私に、何かお手伝いが・・・っ!?」
硬直した。
暗闇の中、視界が開けた気がした。代わりに、熱が、伝わってくる。進の、体から発散される熱が。肩に、重みが。
「若菜にしていたな」
進の声が吐息と一緒に胸に流れてくる。硬直している全身があわ立つ。
「干徳に」
びくん、とラブは名を呼ばれた瞬間いつもより震えた。体の近くでささやかれることで、ラブにとっての進の声の威力が倍増していた。進は構わず続ける。
「こうされる前と後で、若菜の体の緊張が違っていた」
あまり身長差が無いのに、覆いかぶさられている気分だ。それだけ進の体は厚く堅く大きい。
伏せたままの進が動けないラブの手首をつかむ。持ち上げて、進自身の肩に置いた。もう片方も。自動的にラブは進を抱きしめる形になる。
もちろんだが自ら進の体に触れるほどラブは耐性がついていないので、進自身がそれ以上を動けないラブの手を体に押さえ、留めていた。
「何か、言っていた」
同じくらいの身長だからこそ無理のない姿勢に進は居心地の良さを感じていた。ラブはと言えばそれどころではない。オーバーヒートしすぎて逆に、進の言葉しか聞こえないのがこの場合は救いになるのか定かではない。
「・・・知ってる、と、言いました」
進はラブの肩に額を当てたまま顔を上げない。
「何を」
「はるちゃ・・・若菜さんがマネージャーとしてこれ以上なく働いていたことを知ってる、と言いました」
「そうだな」
ラブは認められたことに、表情を柔らかくした。
「進様と」
呼ばれた途端進は身じろぎしたが、結局そのままの姿勢を貫いた。ラブは戸惑ったが、口を開く。
「進様と・・・彼でなければあの試合はなかった。桜庭さんと彼でなければあの試合はなかった。高見さんと彼でなければ、大田原さんと彼でなければ、猪狩君と彼でなければ。春大会からここまで、王城と泥門でなければ、あの試合はできなかったことを・・・私は本日拝見しました」
肩で動かない人に小さく言う。
「ありがとうございました。進様が、さらに上へと征かれる瞬間を見せてくださって、ありがとうございました」
ラブにとってはさらに届かない人になってしまったけれど、それは心から幸せだと思える瞬間だった。
「私、幸せです。進様を好きで、幸せです」
優しい気持ちになって言い切ってしまってから、ラブは蒼白になった。
また呼吸困難になる。
「あ・・・っ、・・・あ、・・・」
手がぶるぶると震える。進がようやく体を起こした。両手にラブの手首をつかんだまま、正面から向き合う。
「落ち着け、干徳」
びくん、と名前を呼ばれて反射的にラブは止まる。
「しんさま」
つたなく呼ぶラブに、進は口を開く。
「俺が、好きか」
顔を覆いたくても進に両手首を捕まれていてままならない。進に見られるともうどうしようもなくなる。さっきまでの方がまだよかった。進の頭が肩にあれば目は合うことがない。
ラブの奥を突き刺す視線。
「は・・・・・・・・・ぃ」
目をつぶって、ようやくのことでうつむいた。
「干徳」
びくんとまた体が反応し、長い睫毛も震えさせるとまぶたが開く。
「俺は、干徳のことを特別に思っている」
次の言葉のゼロコンマ1秒の間にラブは進からの言葉をエンドレスリピートした。
特別に思っている。
特別に思っている。
特別に思っている。
その次にくる言葉を知らないまま。
「だから、干徳」
一瞬で凍ったラブは、また進に呼ばれて、びくんとそこだけは例外なく反応する。
「好きだ」
進は、笑った。
至近距離でその笑顔を見ることができる恩恵を受けたラブは、景気よく意識を手放した。
だがその直前に、進の腕が体に回って支えてくれるのを感じることだけはできたのだった。
以上